10時過ぎに呉のホテルを出発。レンタカーで入船山記念館に向かう。
ここは、呉鎮守府の長官公邸として使われていた建物が保存されている。
入り口の大時計は、呉海軍工廠の造機部の屋上に設置されていたものだという。こうして地上近くで見ると、かなり大きいものだ。
門を守っていた衛兵のボックスがコレ。赤城さんが足を置いている石だが、ちょうど足のかたちにすり減っている。ずっと同じ場所に立っていたことの証拠、ということだったが、なんともすごいことだ。
奥に歩いていくと、いよいよ呉鎮守府司令長官公邸が見えてくる。正面は、洋館風に出来ている。
玄関のガラス。ちゃんと錨と桜が描かれている。
書斎を兼ねた、応接室。写っているのは司令長官が使っていたとおぼしき机。左手には来客用のソファなどがある。
この奥には、プライベート・スペースとして使われていた和室部分が広がっている。やっぱり、いかな呉鎮守府司令長官といえど、くつろぐときには和室だったんだろうね。気持ちはすごく判るなあ。
車に戻って、今度は海軍墓地に移動。
ここは、大戦中に戦没した艦艇と、そこに乗り組んでいた将兵の記念碑がある。
これは、重巡洋艦最上の慰霊碑。
これは、ショートランド島での戦没者慰霊碑。ちなみに、揮毫は草鹿龍之介元海軍中将。
工作艦明石の慰霊碑。
こうしてみると、本当にたくさんの人々の犠牲のもとに、現在の私たちの繁栄があるのだな、ということが実感できる。
是非、機会があれば行ってみて欲しい。
ふたたび車に乗り込み、こんどは江田島に向かう。
呉から江田島へは、フェリーで小用港に向かうルートと、陸路で島つたいに行くルートの二つがある。往路は陸路を使うことに決め、1時間少々かけて到着。
海上自衛隊幹部候補生学校(旧帝国海軍兵学校)の前での一枚。教育部長兼学生隊長のS一佐が出迎えてくださった。
校舎の裏側。イギリス風の造りで、アーチで支えられた外廊下が大変に美しい。ちなみに、手前、板張りの部分があるのだが、これは戦艦金剛の甲板に敷かれていた板材で、改修の際に程度のよいものを選んでここに敷き直したものだという。
まずは、幹部候補生学校副校長にご挨拶をして、いろいろなお話を伺った。海軍からの伝統を、いかに現代の若者に伝えていくか。とくに「精神を伝える」ことの難しさについてのお話が印象に残った。
その後、数々の遺品などが展示されている「教育参考館」を見学したのだが、ここは写真撮影禁止なので割愛。一般見学でも、この教育参考館は見せて貰えるので、是非、いちど行ってみて欲しい。
次に向かったのは、江田島で一番古い建物。さきほどの「赤レンガ」よりも5年ほど先に建てられたという。以前は水交社として将校の社交場として使われていたそうだ。現在も、海幕議長などが呉に来た際、宿泊することがあるそうで。
ここは、高松宮殿下が海軍兵学校におられたとき、休日を過ごすために建てられた家屋。一般の学生は、休日には江田島の下宿屋に戻り、のんびりと過ごしたようなのだが、さすがに宮様を下宿屋に入れるわけにもいかず。さりとて、休日まで兵学校の宿舎では気が詰まってしまう、ということで、兵学校の一番奥に近い部分に建てられたという。普通の民家に見えるが、総檜造りで堅牢に作られているとのこと。
グラウンドの横を通りかかると、ちょうど3月21日の卒業式を控えた生徒さんたちが、集合の練習をしている。さすがに背筋も伸びて、キレイなもんだなぁ、と思っていたら……。なにやらスピーカーから命令が達せられた様子。
いきなり走って宿舎に戻る!
ほんの数分で、さきほどまでの礼装とはうってかわった作業着姿で、グラウンドを走る生徒さんたちが。
実は、これ、抜き打ちで行われる「総短艇」(そうたんてい)という訓練。さきほど、グラウンドで「××分隊、×番ダビッド、△△分隊、△番ダビッド……」という放送が行われたのだが、これが各分隊に割り当てられるダビッド(短艇を保持するクレーン状のモノ)を指示したようだ。で、最後の「かかれ!」の号令一下、全員が自分たちの部屋(実は4階にある)まで駆け上がり、作業着に着替え、ふたたび外に出て、桟橋のダビッドに駆けつけるわけ。
ダビッドでは、すぐに短艇を下ろす作業が始まる。各分隊から、漕手12名、舵取1名、艇長1名の計14名が乗り込み、力強く短艇を漕ぎ始める。
この「総短艇」という競技は、短艇を下ろし、沖合にある二つのブイを周り、戻ってきて短艇をダビッドに固定するまでのタイムを競うもの。
「かかれ」が掛かってから、ほんの数分で、短艇たちは沖合に。
この日は、幹部候補生学校の校長が東京出張中ということもあり、生徒さんたちも「今日はやらないだろう」と思っていた様子。その裏をかく抜き打ち訓練。気の毒というか、なんというか。
実は、この「総短艇」訓練。年間に10回あるかないかということ。たまたま、私たちの取材日、取材時間がこれに当たったと言うことで、私たちはラッキーだった。生徒さんには申し訳ないが(笑)。
そうこうしているうちに、最初の短艇が戻ってくる。案内役の方によれば、このときの生徒さんは、すでに酸欠状態で頭も朦朧としているらしい。
しかし、安全はすべてに優先する。少しでも危険な行動があれば、横で見ている教官が「やりなおし」を命じるとのこと。また、各短艇を双眼鏡で監視する役割の教官もおり、ルール違反があれば、即座にペナルティが課されるとのこと。
今回は、この11番が一着。書き忘れたが、「総短艇」競技でトップになっても採点には何の影響もない、もちろん、ビリになっても何の影響もないということ。ただ、彼らは自分たちの名誉をかけて、日々、自主的な練習と鍛錬を重ねるとのこと。こういうのも、いいもんだ。
見学の最後に、大講堂の内部を見せてもらった。
壇上中央、半ドーム状になっているのが玉座。これほど大きい建物なのに、バルコニーを支えるもの以外、いっさい柱がない。
この大講堂は大正元年から6年間かけて建てられたそうなのだが、設計から土木工事、建物の建設まで、すべて海軍内部の手で行われたとのこと。当時の海軍の技術レベルの高さがうかがえる。
幹部候補生学校を出た後、切串港からフェリーで広島に向かった。夕暮れの瀬戸内は、なんとも優しい表情を見せていた。
さて、この取材の成果を赤城さんが生かすのは、いつになることやら。
海上自衛隊幹部候補生学校の皆様、大変にお世話になりました。生徒の皆さん、くれぐれも事故には気を付けて、卒業までの残り少ない日々を有意義に過ごされますことを。本当にありがとうございました。
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