日本語は難しい?
ここ数日、日本語について考えている。
いや、国語としての日本語とか、たいそうなことを考えているのではない。要するに、コミュニケーションの道具としての日本語だ。
最近、会話のなかで曖昧な表現が増えてきた、という話を聞く。たとえば、「わたし的には…」や「…だったりして」など。果ては「ビミョー」などという表現もあるようだ。これは、断言することで相手を傷つけたくないという意志の現れなんだそうで、それ自体はとりたてて目くじらを立てる必要もない気がする。もちろん、そういう変な表現を使わずとも、相手を傷つけることなく自分の意志を伝えられる人はたくさんいるわけで、そちらのほうが日本語の使い手としての能力は高いと言って良いのではないかと思うけど。
話はとぶが、人には「口ぐせ」というのがある。
さきほどの「わたし的には…」などというのも、人によってはもはや口ぐせなのではないか、と思うほど多用する人がいる。こういう人は、自分の考えを相手にストレートに届かせるということが、もはやその人にとっては「怖いこと」になっているのではないかなどと考えてしまう。とはいえ、そんな口ぐせを持つ人が、意外と人の気持ちを無視した行動を取ることもあるようなので、これは本当にただの「口ぐせ」なんだろう。
一般社会のなかでは、そういう潤滑剤としての口ぐせも悪いものではないし、多少、その表現が相手にとって失礼にあたるものであっても、許されるのかも知れない。
でも、これが編集者だったら、どうだろう。
なにもわたしは、編集者は完璧な日本語を操るべきだ、という話をしているのではない。編集者は、たとえ口ぐせであろうと、きちんとした表現を心がけて欲しいと思っているだけだ。こんなことを考えるようになったのは、(具体例は避けるけど)そういう「とても失礼な表現を平気で使う無神経な編集者さん」というのを、久しぶりに見てしまったから。念のために書いておくと、「わたし的…」や「ビミョー…」などではないよ。普通に解釈したら、「喧嘩を売ってるのか?コイツ」と思わせるような表現。うん。
もっとも、本人には、さほど悪気があるのではないと思うし、最初に述べたように、いわゆる「潤滑剤」としての表現だったのかも知れない。
しかし、自分が言った言葉を解釈するのは、あくまでも相手であるという大原則を忘れていては、編集者はもちろん、一般社会でも通用しないだろう。
もちろん、「人のふり見て我がふり直せ」という言葉もあるので、ここはわたしも大きなことは言えないのだけどね。
ほんと、日本語は難しい。でも、これでゴハンを食べている業界なんだから、もうちょっと大事に使おうよ。ね。
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